古文、漢文、そして自分。

「諦め」は挫折、「諦念」は悟り。「あきらめ」とは、「明らめ」で、よくわからないことをはっきりさせることだ。

 悟りとまでいかなくても、よくわからなかったことがわかった上での「諦め」なら、挫折ではない。無謀な突進をするよりよほどよく、きっと後悔はしない。よく「明らめ」ないで「諦める」から後悔するのだ。

 人はいろんなことを「明らめ」てきて、今に至って平安貴族以上の快適な暮らしを庶民の私も享受している。だが、こと人間に関しては、自分自身のことでさえ、「明らめ」ることが難しい。

 人はこれほどのことを「明らめ」てきたのに、武器が変わっただけで争いが無くならないのは、具体的な顔を持った人間自身のことを「明らめ」ていないからだ。人はよくわからないものを恐れ、身を守ろうと攻撃的になる。

 自分自身のことを「明らめ」ようとすることは、決してムダなことではない。世界平和とまでいかなくても、いつまでも消えない後悔に苛まれることが無くなるだけでも、ずいぶん生きやすくなる。

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